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東京高等裁判所 平成2年(行コ)169号 判決 1993年1月27日

控訴人兼附帯被控訴人(以下「控訴人」という。)

横浜市

右代表者市長

高秀秀信

右訴訟代理人弁護士

早川忠孝

右同

山崎明徳

右同

河野純子

右同

空田卓夫

右早川忠孝訴訟復代理人弁護士

濱口善紀

被控訴人兼附帯控訴人(以下「被控訴人」という。)

鈴木紀子

右訴訟代理人弁護士

堤浩一郎

篠原義仁

山田泰

三浦守正

稲生義隆

根岸義道

岩橋宣隆

森卓爾

小口千惠子

影山秀人

中村宏

高橋宏

畑山穰

川又昭

飯田伸一

星山輝男

佐伯剛

藤田温久

野村正勝

主文

一  1 原判決中、控訴人敗訴の部分を取り消す。

2 被控訴人の請求を棄却する。

二  被控訴人の附帯控訴を棄却する。

三  訴訟費用は、第一、二審を通じ、被控訴人の負担とする。

事実

一  当事者の求めた裁判

1  平成元年(行コ)第六二号

(一)  控訴の趣旨

(1) 原判決中、控訴人敗訴の部分を取り消す。

(2) 被控訴人の請求を棄却する。

(二)  控訴の趣旨に対する答弁

本件控訴を棄却する。

2  平成二年(行コ)第一六九号

(一)  附帯控訴の趣旨

(1) 原判決を次のとおり変更する。

(2) 控訴人は、被控訴人に対し、金一〇〇〇万円及びこれに対する昭和五七年一月九日から支払いずみまで年五分の割合による金員を支払え。

(3) (2)につき仮執行宣言

(二)  附帯控訴の趣旨に対する答弁

本件附帯控訴を棄却する。

二  当事者の主張

当事者の主張及び証拠の関係は、次のとおり、付加訂正するほかは、原判決事実摘示のとおりであるから、これを引用する。

1  原判決三枚目裏一〇行目の「ゆかり」を「ゆりか」に、同二九枚目裏一行目の「本件」を「原審及び当審」にそれぞれ改める。

三  当審における主張

1  被控訴人の主張

(一)  保育労働の過重性

保育労働は肉体労働と精神労働とを含む多様な労働から成立している。しかも、人間(乳幼児)を対象とした仕事であるから高度の精神的緊張を余儀なくされるとともに、乳幼児の身体的条件、行動に合わせるため、無理な姿勢を間断なく取ることを強いられるという特殊性を持つ労働である。これらのことが、保育労働を強度の負担を伴う労働にしている。

その上、次のような事情が、保母の労働を益々過重にしている。

同僚の保母が休暇を取ったときに、当該保母のクラスの乳幼児を合わせて混合保育をせざるを得ないこと、同僚保母が産休・私傷病休暇を取ったときに慣れていないアルバイト保母が代替要員に当てられることが多く、保母はアルバイト保母の指導をも受け持たざるを得ないこと、各保育園の調理員の配置は一名であった(昭和五二年三月まで)から、調理員が休暇等を取ったとき、保母が調理を担当したこと、保育園に用務員が配置されていないために、保母等がその業務を肩代わりしていること、一日の保育の実態は、いくつかの仕事を同時に並行的に進行したり、園児の行動を把握監視しながら他の園児の指導をしたり、園児はスケジュールとおりには行動(例えば、寝つく)しないため、昼休み時間がとれなかったりという繁忙なものであること、保育業務には早出及び居残り残業は常態であることである。

(二)  被控訴人の保育労働の過重性

長津田保育園は、乳児室が狭く、また便所の施設が不備であったことが、一、二歳児の保育を担当した被控訴人の負担を重いものにしていた。同保育園の一、二歳児の措置定員は昭和四六年度に六名から一二名に増員されたが、定員一二名の場合には、厚生省の基準によれば、保育室は一室で最低29.7平方メートルの面積が必要であるのに、同保育園の保育室は壁等で二つに仕切られ、一室は一八平方メートルしかなかった。これは、右基準に違反するもので、これだけで業務過重というべきである。

同僚保母である武藤が昭和四六年七月八日から同年一一月二九日まで産休を取得した間、同年九月三〇日までは代替要員として正規の保母が配置されたものの、その後は保母資格のないアルバイト保母しか配置されなかったこと、昭和四七年四月から一、二歳児一一名を三名の保母で担当することになったが、他の二名の保母は採用間もない保母であり、しかも、担当園児が保育園は始めてという乳児であったことが、被控訴人の負担を更に重いものとした。以上の状態は、前記基準に違反するというべきものである。

山手保育園における保育においては、次の事情が被控訴人の負担を過大なものとした。

開園の準備に伴う負担、主任保母としての負担、調理員の業務に従事したことによる負担、夏季合同保育期間中の負担、森重保母の欠勤に伴う負担、混合保育に伴う乳児室の狭小による負担、近隣居住者の苦情に伴う負担、園児を付近の公園で遊ばせることによる負担である。特に、森重保母の長期欠勤の間は、アルバイト保母を配置するなどしたものの右保母が欠勤することもあり、また途中で、森重の担当したもも組を解体して年齢により園児を分ける組替えを実施し、その結果年少の五名が被控訴人の担当するたんぽぽ組に編入され、被控訴人は、一歳児一名、二歳児五名、三歳児五名を担当したが、これは園児数と保母の人員の比率を定めた基準に違反する。

さらに、両保育園では、休憩時間はきちんと取ることができず、年休や生理休暇を取得しにくい状況であり、残業も極めて多かった。

(三)  保育労働と頚肩腕障害との因果関係

保育業務と被控訴人の本件疾病との間には、一般的、定型的な因果関係がある。

保育は、乳幼児という極めて成長の早い動きの活発な、個々的に発達段階を異にした集団を対象とし、肉体的にも上肢の反復作業、中腰やしゃがみこんでの作業の反復という激しい労作を要し、精神的にも高度の緊張を要求される労働であるから、労働の諸条件に労働衛生的な配慮が欠けるときは疲労が蓄積することとなる。そして、頚肩腕障害は、この疲労蓄積から徐々に進行した運動器系障害はもちろん、中枢・末梢神経系、自律神経系、感覚器系、循環器系の障害を伴うものであり、全身的な回復しにくい機能障害又は器官障害を呈する。このように、保育労働に当たっては、使用者において十分な労働衛生上の配慮をしなければ、保母に頚肩腕障害が発生することは必然といってよく、その意味で保育労働と頚肩腕障害との間には定型的因果関係がある。このことは、全国各地で保育労働に伴い保母が頚肩腕障害に罹患し、労災(公災)の認定が多数なされていること、種々の疫学的調査により裏付けられている。

(四)  控訴人は、被控訴人の使用者として、被控訴人に対し、次の具体的な安全配慮義務を負っている。

(1) 控訴人は、市立の保育園に保母、作業員等適宜な人員を配置して、業務量の適正化ないし軽減化を図るとともに、保母らのために十分な休憩時間を設定、確保し、休暇を保障し、かつ、施設を整備して、肉体的、精神的疲労を防止し、保母の健康障害の発生を防止する義務がある。

(2) 控訴人は、健康障害の症状を呈する労働者を発見した場合には、早期に適切な治療を受ける機会を設ける措置を講じ、さらに、病状の増悪を防止して健康の回復を図るため、病状の悪化につながる業務の量的、質的な規制措置を講じる義務がある。

(五)  予見ないし予見可能性

被控訴人は、昭和四三年四月から長津田保育園に勤務し、昭和四七年四月に一、二歳児の保育を担当するようになってから、右腕、右肘が非常に痛み出し、肩凝りが悪化して、橋本接骨院で治療を受けるようになり、同年五月まで右治療を続けた。その後、被控訴人は山手保育園での業務が過重になるなかで、症状を増悪させ、同年九月四日、汐田病院に通院して治療を受けるようになった。

昭和四七年五月に、神奈川県内の民間保育園の保母が頚肩腕症候群について業務上の認定を受けており、また、名古屋、大阪の公立保育園の保母においても、昭和四三年から昭和四六年にかけて頚肩腕症候群に罹患している事例が見られ、公務上災害の認定を求める動きが始まっており、その他公的機関や民間の機関の調査結果等に照らしても、控訴人は、遅くとも、被控訴人は発病した昭和四七年四月又は九月の相当以前の時期に、保育労働に従事する保母に健康障害、特に、頚肩腕障害、腰痛症患者が相当数発生していることを認識していたから、被控訴人の右発症を予見し又は予見することが十分可能であった。

(六)  控訴人は、被控訴人の発病を予防し、健康の回復を図るため、業務を量的、質的に軽減する措置を何ら採らなかっただけでなく、量的にも、質的にもより過重な業務に従事させ、さらに、その後も業務軽減措置を採らなかったのであり、控訴人の債務不履行責任は極めて重大である。

(七)  被控訴人の症状が、本格的に発現したのは、昭和四七年四月のことであるが、それ以来、約一五年にわたり著しい肉体的精神的苦痛を被ってきた。その結果、健康破壊にとどまらず、家庭生活や子供の教育面など多方面において、深刻な被害を長期間にわたって受け続けることになった。この間、被控訴人は、自費で治療を受け、少なくとも、指圧療法費一〇二万九〇〇〇円、骨格調整費七五万六〇〇〇円合計一七八万五〇〇〇円の治療費を支払っている。これらの事情を考えると、被控訴人が、控訴人の債務不履行により頚肩腕障害に罹患し、増悪したことによる損害としては一〇〇〇万円を下ることはない。原審の二〇〇万円の認定額は低きに過ぎるものである。

2  控訴人の主張

(一)  頚肩腕症候群の診断には、労働衛生的な面からの考察はもとより、各種テストにより、客観的資料を得た上、自覚症状、既往歴、家族の状況を考慮して慎重に行うべきであるのに、安達医師は、初診時に、被控訴人の症状を頚肩腕症候群(頚肩腕障害)と診断しているが、これは、被控訴人の自覚症状と簡単な触診により、類似疾患との鑑別診断もしないままなされた極めて杜撰な診断であって、信用できない。

(二)  保母の業務は、通常人には頚肩腕症候群の発症しない業務であり、業務と頚肩腕症候群との間に因果関係を肯定するためには、被控訴人の従事した業務が過重であったことを要するが、右業務が過重であったとは認められず、被控訴人の身体的因子、出産・育児・家事等の影響も考えられるから、因果関係は否定されるべきである。

(三)  被控訴人の頚肩腕症候群の発症時期である昭和四七年九月四日以前の時点では、保育園の保母に頚肩腕症候群の発症することは一般的には認められていなかったから、控訴人には、被控訴人の頚肩腕症候群の発症について予見可能性がなかった。

理由

一原判決の理由説示中、同判決二九枚目裏四行目から同三〇枚目裏五行目の末尾までを引用する。但し、次のとおり付加する。

1  原判決三〇枚目表二行目の「一〇〇号証、」の次に「乙三号証、」を、同三行目の「結果」の次に「(原審、当審)」を、同八行目の「罹患し」の次に「、昭和四六年一〇月ころ、突然、腰から大腿部にかけて筋肉痛を訴え、産婦人科の治療を受けた」をそれぞれ加える。

二被控訴人の疾病の発症、その後の経過等

1  前記認定事実及び<書証番号略>、証人安達隆の証言、被控訴人本人尋問の結果(原審、当審)によれば、次の事実が認められる。証人伊藤てい子の証言中、右認定に反する趣旨の部分は、右各証拠に照らし採用し難い。

(一)  被控訴人は、長津田保育園に勤務していたころの昭和四五年九月ころから、時々、肩、背中の痛みを感じるようになった。

(二)  被控訴人は、昭和四七年四月から、一、二歳児一一名を担当したが、このころから、慢性的肩凝りに加えて、右腕、右肘の筋肉が非常に痛み出した。通勤時、電車やバスのつり革に掴まっているのも苦痛であった。そのため、同年六月に山手保育園に転勤するまで、橋本接骨院に通院して電気マッサージの治療を受けていた。

(三)  被控訴人は、昭和四七年六月二日、山手保育園に転勤したが、そのころから肩凝り、腕のだるさ、立っているのが辛い、精神的疲れを感じるなどの自覚症状があった。同年七、八月ころは、自宅で家事をするのが辛く、保育園での調理作業中、右背中に作業を中断しなければならない程の激痛を感じたこともある。このころは、何の治療も受けなかった。

(四)  被控訴人は、昭和四七年四月、財団法人横浜勤労者福祉協会汐田病院(横浜市鶴見区<番地略>所在)(以下「汐田病院」という。)で医師安達隆(以下「安達医師」という。)の診察を初めて受け、また、「自覚症状調査表」、「日常生活の不便・苦痛についての調査表」、「職場・健康のアンケート」に自己の身体の部位に感じた症状、その程度、業務又は生活上感じる不都合等を記入した。その際、被控訴人は、医師に自覚症状を口頭及び右書面により次のように訴えている。すなわち、半年位前から両肩とくに右側が凝る。右側の肩凝り、腕のだるさや痛さは慢性的である。時々、肩、首、背中の痛み、腰のだるさと痛みがあり、全身症状として身体がだるい。

他覚的所見としては、触診により、僧帽筋の緊張と圧痛、肩甲筋の緊張亢進と圧痛、右頚部の伸展痛があり、右頚部を圧迫すると上肢の痛みがあり、さらに右腕の圧痛、右肩甲骨の内部に圧痛が見られた。同医師は、問診時、被控訴人の業務の内容について、被控訴人は、山手保育園の保母であること、同保育園の保母は四名であること、同保育園は定員六〇名、園児五四名であり、被控訴人は乳児六名の保育を担当すること、勤務時間は午前九時三〇分から午後四時三〇分であり、午前一二時から昼食後子供と一緒に寝る旨を聴取した。安達医師の被控訴人に対する右初診日の診察は、ほぼ、二、三分位であった。

同日、安達医師は、右各調査表の記載内容、被控訴人の右症状や業務内容等に基づき、被控訴人の病名を頚肩腕症候群と診断し、その後、病名を頚肩腕障害と改めた。同医師は、被控訴人の症状が、被控訴人の従事してきた保母の業務と関係があると判断して、頚肩腕症候群と診断した。その後、業務に起因するものであるとの意味を含めて、頚肩腕障害と病名を改めた。

(五)  被控訴人は、昭和四七年九月、汐田病院で、四回マッサージ等の治療を受け、しばらくは前記自覚症状も軽くなり、右腕の痛みも和らいだ。

(六)  被控訴人は、その後も、昭和五一年八月一三日まで、汐田病院に通院し、マッサージなどの治療を受けたが、この間、被控訴人の前記症状は、若干の起伏を伴いながらも続き、昭和四八年一二月には右手のしびれ、昭和四九年四月には右指の痛みなど初診時に見られなかった症状があった。昭和五一年八月一三日の最終通院時は、自覚的症状は、右側であるが、肩の凝りは常にあり、首の凝りやだるさ、背中の痛さ、腕のだるさが強く、右手指の動きの悪さを訴えており、他覚的所見としては、肩甲部の僧帽筋の緊張の亢進と強い圧痛、背部の大菱形筋の緊張、右上肢の圧痛が見られた。安達医師は、被控訴人の症状は、初診時に比べ、進行し悪化したとの見解を述べている。

(七)  被控訴人の汐田病院への通院の状況は、昭和四七年は、九月に五回、一〇月に二回、一一月に四回、一二月に五回、昭和四八年は、二月に四回、三月に一回、五月に五回、六月に四回、七月に六回、八月に四回、九月に二回、一〇月に三回、一一月、一二月に各一回、昭和四九年は、一月に三回、二月に三回、四月に四回、五月に三回、六月に二回、七月に五回、八月に三回、一〇月に四回、一一月に一回、昭和五〇年は、一月に五回、四月、五月、七月に各一回、昭和五一年は、二月、八月に各一回である。

被控訴人は、ほぼ園児の午睡の時間帯に右通院をした。なお、被控訴人は、自己の症状について、汐田病院以外に前示した症状に関連して医師の診断を受けたことはない。

(八)  被控訴人は、昭和四九年七月から昭和五八年六月まで、自宅で月一ないし五回の指圧の治療を受けた。また、昭和五九年四月から骨格調整治療を受け、その改善効果を感じており(昭和六二年一一月一〇日実施の原審被控訴人本人尋問の日現在)、将来については楽観的な見通しを持っている。

控訴人は、「被控訴人は、汐田病院に通院していた昭和五一年八月までの間、自覚症状を種々訴え、その症状はむしろ悪化の傾向が見られるが、被控訴人は、後記のとおり、特に昭和五〇年七月労働組合の執行委員に就任後は、多数回の職務専念義務の免除(以下「職免」という。)を得るなど、保育業務の従事を著しく軽減されていたのであるから、被控訴人の主訴は誇張があるか、虚偽であって信用し難い。」旨主張するが、被控訴人は、昭和五〇年七月より前から既に症状を訴えており、前記のとおり、通院治療を受けていることに照らすと、仮に控訴人の主張する事実があったとしても、そのことから、直ちに被控訴人の症状に関する訴えが誇張や虚偽であるなどと一概にいうことはできない。

2  被控訴人による公務災害認定請求について

<書証番号略>によれば、次の事実が認められる。

(一)  被控訴人は、昭和四九年七月二二日付で、地方公務員災害補償基金(以下「補償基金」という。)横浜市支部長に対し、被控訴人が、長津田保育園及び山手保育園に勤務時に罹患した頚肩腕障害の傷病が公務により生じたことの認定の請求をしたところ、補償基金横浜支部長は、被控訴人の右傷病を公務外の災害と認定する決定をし、昭和五一年四月一九日付書面でその旨を被控訴人に通知した。

(二)  被控訴人は、右決定を不服として、補償基金横浜市支部審査会に対し、審査請求をしたところ、同審査会は、昭和五三年一二月二六日付で同審査請求を棄却する旨の裁決をし、さらに、被控訴人の右裁決に対する再審査請求に対し、補償基金審査会は、昭和五六年九月二日、同再審査請求を棄却する旨の裁決をした。

(三)  被控訴人は、右公務災害の認定請求において、傷病名を頚肩腕障害とし、右傷病が前記各保育園の業務従事に起因するものであると主張したが、右各手続においては、被控訴人の罹患した傷病名は特段争われず、右傷病と業務との因果関係だけが争点となり、因果関係が否定されたために被控訴人の請求は認容されなかった。

三頚肩腕症候群及びその症状について

1  <書証番号略>によれば、次のことが認められる。

頚肩腕症候群については、未だ、明確な定義を欠くが、一般には、主として頚部、肩、上肢にかけての痛みを訴え、しびれ感、重感、脱力感、知覚異常などの症状を併発する状態につけられた総括的名称とされ、他覚的には、当該障害部の筋肉の病的な圧痛、硬結等を伴う。自覚的症状が主体で、他覚的所見に乏しく、業務に起因して発症する場合もそれ以外の原因で発症する場合もあるとされる。外傷に起因するもの、原因が明らかなものには原因疾患名が付けられて除かれる。

頚肩腕症候群は、医学的にその病理的発生機序が十分に解明されているとはいえないが、発症の要因は複雑多岐であり、労働因子、身体的因子、精神的・心理的因子を無視することができないと考えられている(文献によっては、この三つの因子を明確に同等に並べて三大要因というものもあるし、むしろ、精神的、心理的労働適性の方を強調するものもある。)。特に、業務により発症したものかどうかの判断に当たっては、できるだけ原因疾患を究明して他の疾患との鑑別を行うとともに職場の労働条件等職場環境、就業状態、患者の性格などの心理状態をも調査し、その発症への影響を総合的に考慮して、業務との医学的な因果関係を判断するべきものとされている。

2  日本産業衛生学会(頚肩腕症候群委員会)は、頚肩腕症候群中業務に起因するものを頚肩腕障害とし、その定義として、「業務による障害を対象とする。上肢を同一肢位に保持、または反復使用する作業により神経・筋疲労を生ずる結果起こる機能的あるいは器質的障害である。ただし、病像形成に精神的因子および環境因子の関与も無視し得ない。」旨の説明をしている(<書証番号略>)。

四被控訴人の疾病について

1  前示のように、安達医師は、被控訴人の身体の症状について、昭和四七年九月四日、頚肩腕症候群と診断し、その後、頚肩腕障害と病名を改めている。右病名に改めたのは、前記の産業衛生学会の見解に従ったものである(証人安達隆の証言)。

2 ところで、頚肩腕症候群については、前示のように、これと類似の症状を示す疾病が他にも見られ、発症の原因も多様多岐であり、診断に当たり前記三因子の存在を無視できないとされており、職場環境、労働条件や患者の性格等の労働衛生的観点からの資料をも考慮し、さらに他の類似の疾患との鑑別診断をするなど、その診断は慎重に行うことが必要であるとされている(前記三の1掲記の各証拠)。

控訴人は、被控訴人の症状を頚肩腕症候群又は頚肩腕障害とする安達医師の診断は、被控訴人の主訴と触診のみによる短時間の初診時の診察によりなされたものであって、職場環境等の調査もせず、類似疾患との鑑別もされていないから疑問があると主張する。

前記認定事実によると、安達医師は、初診時に被控訴人に対し行った数分程度の触診と口頭及び書面による自覚症状及び業務内容に関する簡単な問診と若干の検査により、被控訴人の症状を頚肩腕症候群と診断していることが認められ、類似疾患との鑑別診断がされたことは窺い得ない。

この診断に対して、被控訴人の症状については、右頚肩腕痛が主体であり、モーレイ・テストがプラスであること等に、保母の作業態様は右上肢だけを使用するものとは考えられず、保母の業務に起因する症状ならば身体の両側に発現するのが通常であることを根拠に、右胸郭出口症候群と診断して安達医師の診断に疑問を呈する高橋定雄医師の見解もある(<書証番号略>)。また、同医師の右見解は、安達医師の右診断が被控訴人の業務の実態について十分な調査を経たうえで行われたものではないことを指摘しており、前記医学的見解なども合わせ考えると、安達医師の被控訴人の疾病の診断が、被控訴人自身の業務の実態やその身体的素因等個別的事情を十分に調査し、これを考慮した上でされたといえるかについては疑問もあり、また、右診断は、他の疾患との鑑別に配慮せずにやや早急になされた嫌いがあるのではないかとの疑問も生じる。

しかし、被控訴人は、当時少なくとも頚肩腕症候群類似の症状を示していたこと、保母の業務に従事することにより頚肩腕症候群に罹患することがないわけではないこと(<書証番号略>参照)、安達医師は、昭和四五年ころから、保母の頚肩腕症候群の診断をしており、同人が頚肩腕症候群と診断した保母のうちには、申請により公務に起因する疾病との認定を受けた者もあること(<書証番号略>、証人安達隆の証言)、さらに、前示のとおり、被控訴人は、補償基金等に対し、本件頚肩腕症候群について、公務上災害によるものであるとの認定申請をし、公務外との決定等を受けているが、補償基金は、被控訴人の疾病の業務起因性については争ったとはいえ、その病名については、特に争っていなかったこと、本件訴訟においても、控訴人は、被控訴人が頚肩腕症候群又は頚肩腕障害に罹患したとの主張を争ってはいたものの、右病名については、平成四年四月一五日付準備書面においてにわかにこれを右胸郭出口症候群と記載し、<書証番号略>(鑑定書)を提出するに至るまでの間は、病名について自ら積極的な主張をしておらないなどの従来の訴訟等の経過があること、控訴人主張の右病名は、臨床的診断をしていない高橋医師の鑑定書という形式による意見によるものであり、その意見は反対尋問を経ておらないものであることなどを考えると、被控訴人の症状が、頚肩腕症候群であるとの安達医師の診断は、それが業務に起因するものかどうかの点や正しい病名を頚肩腕障害というべきか否かの点はともかく、それを誤りとは断定し難いものがある。

したがって、この段階では、被控訴人の症状は、一応、頚肩腕症候群に当たるとの前提で、以下に、被控訴人の頚肩腕症候群と診断された症状が、保母の業務に従事したことにより生じたものかどうかを検討する。

なお、被控訴人は、被控訴人の症状を右胸郭出口症候群とする控訴人の主張及び<書証番号略>の証拠調べの申出について、時期に遅れた攻撃防禦の方法の提出であると主張し、その却下を求めるので判断すると、従来の訴訟の進行経過(右主張及び書証の援用は、控訴状提出の日である平成元年六月六日から四年近くも経過し、既に証拠調べが終了した平成四年四月一五日提出の同日付の控訴人準備書面に初めて現れる。)に照らすと、控訴人の右主張立証は、時期に遅れた攻撃防禦の方法の提出と認められるが、そのために、本訴訟の遅延を招くものとは認め難いから、控訴人の右攻撃防禦の方法は却下すべきものではない。

五頚肩腕症候群と業務との因果関係について

1  労災補償上の扱い

(一)  昭和三〇年代に、事務作業の機械化が進み、カードのせん孔に従事するキーパンチャーの間に、上肢特に手指の異常を訴える者が多発し、職業病として社会的な関心が集まった(<書証番号略>)。これが、現在、職業病として頚肩腕症候群と呼ばれる疾病でるが、右頚肩腕症候群については、労働災害補償上は、せん孔、印書、電話交換、又は速記等の業務その他上肢に過度の負担のかかる業務による頚肩腕症候群(労働基準法施行規則別表第一の二第三号4)として、補償の対象とされている。そして、労災補償の行政事務処理の観点から、昭和四四年一〇月二九日付け通達「キーパンチャー等手指作業に基づく疾病の業務上外の認定基準について」(基発第七二三号通達)により認定基準が示され、その後、これを改定した昭和五〇年二月五日付け通達「キーパンチャー等上肢作業に基づく疾病の業務上外の認定基準について」(基発第五九号)(以下「労働省通達」という。)が発せられ、現在に至っている(<書証番号略>)。

地方公務員の災害補償についても、ほぼ右労働省通達の基準に沿った基準で認定が行われている(<書証番号略>参照)。

(二)  右労働省通達は、頚肩腕症候群については、業務との因果関係につき次の要件を示している。すなわち、従事した業務が上肢の動的筋労作(例えば、打鍵などの繰り返し作業)又は上肢の静的筋労作(例えば、打鍵などの繰り返し作業)又は上肢の静的筋労作(例えば、上肢の前・側方挙上位などの一定の姿勢を継続してとる作業、頚部を前屈位で保持することが必要とされる作業を含む。)を主とする業務であること、右業務に相当期間継続して従事し、その業務量が同種の他の労働者と比較して過重であるか、業務量に大きな波がある場合であること、症状が、業務以外の原因によるものでなく、かつ、業務の継続により症状が持続するか、又は増悪の傾向を示すものであることである。

右通達は、手指ないし上肢を過度に使用する作業を前提として基準を設定しており、保育園の保母の業務は、行政上は、右通達により定型的因果関係の認められる前記二類型の作業に該当しないこととされるから、労災補償上は、保母の業務については、具体的、個別的に、業務と頚肩腕症候群との因果関係の有無の判断が必要とされる扱いである。(<書証番号略>の説明参照)。

そして、右通達は、上肢を過度に使用する作業を前提として認定基準を設定したものであるから、労災補償上の行政的取扱いとしては、右作業に該当しない作業につき右要素を斟酌するに当たっては、経験則上、業務につき右前提とされた作業に匹敵し得るほどの上肢への負担の危険性、有害性が個別的に認定されることが必要とされているものと解される。

2  本件訴訟における考え方

本件において、被控訴人に発症し、頚肩腕症候群と診断された前記症状が被控訴人の従事した保母の業務によるものであるというためには、右業務と右発症した症状との間に相当因果関係の存在が認められることを要し、右相当因果関係の存否は、諸般の事情を基礎に、具体的個別的に判断されるべきであるが、業務が被控訴人の右疾病の相対的に有力な原因であることを要すると解される。

ところで、頚肩腕症候群の病態や原因について、医学的にその病理的発生機序の十分な解明が進んでおらず、諸種の見解があること、右労働省通達は、頚肩腕症候群にかかる医学的解明が右段階にあり、キーパンチャーなどの限定された職種についてのみ業務による頚肩腕症候群の発症が肯認されており、一般的には業務との関連が認められていない現時点において、医学的に解明されている範囲での集約という形で行政的に定義を明確にし、特定の業務について業務上外の認定基準を定めたものであることを考えると、右通達の示す因果関係判定上の要素(例えば、当該労働省の作業態様、作業従事期間及び業務量)については、本件のような損害賠償請求訴訟においても斟酌されるべきものであると解される。そして、損害賠償請求訴訟における相当因果関係の認定の問題としては、右のように右通達による認定基準を斟酌するべきであるとしても、前示のような意味で通達所定の作業に匹敵しうるほどの上肢への負担の危険性、有害性が当然に必要であるということはできず、それに達しないものであっても、その一事をもって直ちに損害賠償請求訴訟における相当因果関係を否定するべきものではないと考えられる。

したがって、本件において、相当因果関係の認定に当たっては、保母の業務の性質、内容や被控訴人の個別的な業務内容、業務従事状況、業務量などを通じて、保母の一般的業務や被控訴人の個別的業務の特異性、有害性の有無、程度等を把握するほか、必要に応じ、被控訴人の身体的条件、生活状況その他被控訴人の業務外の事由による発症の可能性の有無も含む諸般の事情を考慮するべきである。

3  保育業務と頚肩腕症候群との因果関係について

(一) 頚肩腕症候群と診断された被控訴人の主な症状は、前示のとおり、右肩、右頚部、右腕部の痛み、だるさ等であるが、職業病としての頚肩腕症候群の発症の原因や病理的発生機序については、未だ十分な解明がなされていないとはいえ、せん孔、印書など上肢に過大な負担のかかる業務に従事することにより頚肩腕症候群の症状を生じることは医学的にも、法的にも承認されたところである(労働基準法施行規則、前記労働省通達参照)から、保育業務の作業の性質、内容、態様が、前記せん孔などの業務のように、上肢に過度の負担のかかる業務かどうかについて以下に検討する。ちなみに、前記三2に判示のとおり、日本産業衛生学会による頚肩腕障害の定義においても、同障害が起こる原因となる作業は、「上肢を同一肢位に保持、又は反復使用する作業」であるとされているところである。

保育業務一般に存在する、他の業務に比べての特殊性は、後に判示するとおり、乳幼児に対し教育的配慮を払いつつその保護と介助に当たることがその主なものであって、保育の対象が心身の発達の未熟な、動きや変化の多い複数の発達段階を異にした乳幼児であるところから、保母は、複数の乳幼児の活発な動きに合わせて身体を動かすことが多く、この間気の抜けない精神的緊張を間断なく強いられ、また、乳幼児の身体的条件に合わせるため、成人としては不自然な低位姿勢を取らざるをえないことが多いのであり、さらに、以上のような特徴を有する保育業務は、対象が人間であることから心身の苦労や負担の多い仕事であることは十分に推認することができるものである。

しかし、保母が、保育に当たり、乳幼児の介助などのために、抱き上げるなど上肢を使用することが多く、また、介助、遊びの指導など乳幼児の身体的条件やその動きに合わせて、中腰、前屈、しゃがみこみなどの不自然な姿勢や体位を取る必要があることは前示のとおりであるとしても、保母の業務の性質上複数の乳幼児それぞれの、その時々の絶え間ない要求や動きに合わせて動作をする必要があるのであるから、むしろ、多様な姿勢を断続的に取って対応することになることが多いと考えられ、一つの動作を間断なく反復したり、不自然な姿勢を取るといっても、保母の通常の業務の形態では、それらは短時間に止まり、前記通達所掲の業務の事例のように、長時間にわたり一つの動作を間断なく反復したり、或いは長時間にわたり一つの姿勢を保持、持続することを強いられる事態が日常の業務の上で度々生じるとは認め難い。したがって、保母の業務の態様は、一般的には、前記労働省通達にいう上肢の動的筋労作又は静的筋労作を主とする業務には当たらず、その業務に従事することにより、右通達にいう業務のように上肢という身体の特定の部位に過大な負担がかかる職種であるということはできないのであって、一般に頚肩腕症候群が生じる蓋然性が高い職種とは、にわかにはいい難い。結局、被控訴人の症状については、前示のように、業務量などその勤務した保育所の業務の内容その他の個別的な諸事情を総合して、上肢への過大な負担その他被控訴人の症状の原因となる事実の有無を探り、業務との因果関係の有無を判断するほかない。

(二)  被控訴人は、保育所の保母の業務と頚肩腕症候群(障害)との間には定型的な因果関係があると主張する。

相当数の保母が、頚肩腕症候群による労災(公災)補償の認定を受けていることは認められ(<書証番号略>、証人石川幸代の証言)、また、保母の業務の状況や健康状態の調査等を実施した結果が昭和三〇年前後ころから多数公表されていることは認められる(<書証番号略>、証人小野雄一郎の証言)が、前示した保育業務の性質との関係や頚肩腕症候群の病像、その発症の原因等についての医学的な解明が必ずしも十分になされていないこと、頚肩腕症候群の原因は種々の因子がからみ複雑多岐であるとされることを考えると、少なくとも現段階においては、右事実や調査結果をもって、直ちに保母の業務と頚肩腕症候群(障害)との間に定型的因果関係があると認めることは困難であり、この点に関する被控訴人の主張は採ることができない。

六保母の保育業務の内容について

1  保母の日常的な保育業務の一般的内容については、原判決三〇枚目裏七行目の冒頭から同三一枚目裏一行目の末尾までのとおりであるから、これを引用する。

2  <書証番号略>によれば、保育業務はおおよそ次のように分類されていることが認められる。

①保育計画の設定、②生理行為の補助(排泄、おむつかえ、食事介助、昼寝、手洗い、衣服の着脱、哺乳)、③教育的援助指導(遊戯、おはなし、水あそび、散歩、体操、運動会、発表会などの行事、絵、工作、ことば、歩行援助)、④自由あそびの組織化と保安、⑤準備・整理・掃除、⑥安全衛生及び健康管理、⑦保育の記録・家庭との連絡(日誌、連絡帳、資料づくり)、⑧行事の準備・開催・あとしまつなど

<書証番号略>によっても、ほぼ同様であると認められる。

3  右事実によれば、保母の業務の内容は、精神的かつ肉体的作業の要素を含む多様な内容を持つものであるということができる。

4  保育業務の一般的特殊性について

<書証番号略>、原審における検証の結果、被控訴人本人尋問の結果(原審、当審)によれば、次の事実が認められる。

(一)  保育業務の対象は、心身の発達の未熟な自律性ないし自立性のない乳幼児であり、その身体等に及ぶ危険の防止のための大人の保護は最小限必要であり、またその生活に大人の補助は必須である。乳幼児は、勝手に動き回り、突発的動作をすることもあり、その行動を予測することは困難である。保母は、このような乳幼児の動きに合わせて、しかも、保育は複数の乳幼児を対象に行われるから、個々の乳幼児の動きに合わせて、その保護や補助のために絶えず対処する必要がある。

このように、乳幼児の動きに合わせる必要があるから、保母の業務は受身的で、かつ拘束性が強く、他律的な作業にならざるを得ない。

(二)  乳幼児を保護あるいは介助するためには、常時、複数の各乳幼児を表情、や顔色なども含めて観察、監視し、その活発な要求や動きを察知して、危険の防止や介助を、同時的、並行的に、また反復して行わなければならないから、保母は、いくつかの内容の異なる作業を反復連続して行うことが多く、一つの作業をする間にも、他の乳幼児の観察、監視が要求される。その意味で、保母は、乳幼児から片時も目を離すことはできず、気の抜けない精神的緊張を間断なく強いられ、また身体を動かすことが多い業務ということができる。

(三)  保母は、業務に従事している間、乳幼児の身体的条件に合わせるため、成人にとっては不自然である低位な作業姿勢を取らなければならないことが多い。例えば、乳幼児の排泄・食事を介助する際のしゃがみこみ姿勢や中腰ないしかがんだ姿勢、衣服の着脱を介助する際の膝つき姿勢、床に尻を付け又は屈んだままで乳幼児と遊んだり、乳幼児を抱っこする際の床座姿勢などである。

もっとも、保母は、業務の性質上、複数の乳幼児のその時々の要求や行動に合わせて、各種の姿勢を断続的に繰り返すものであり、その作業態様は動的に種々の作業態様の混じった混合作業の範疇に入るものといえるから、一つの動作を間断なく反復したり、不自然な姿勢を取ったりしても、それらは短時間に止まるのが通常であり、長時間にわたり一つの動作を間断なく反復継続したり、一つの姿勢を相当長時間にわたって保持、持続することを強いられる事態が日常の業務の上で度々生じるとは認め難い。

他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

なお、保母が他の動作をしているときに、乳幼児が前後左右の方向から、突然に保母に飛びついたり、引っ張ったり、押したりすることがあり、その動きにより、身体の当該部位に負担がかかることは容易に推認することができる。

七被控訴人の保育園における業務について

1  横浜市立保育園の保母の一般的な業務内容

(一)  保育園の保母の勤務時間は、午前八時三〇分から午後五時(土曜日は、昭和四七年当時午後零時一五分)まで、休息時間(三〇分)は午後四時三〇分から午後五時までであり、休憩時間(四五分)は昼食時間が原則であるが、業務の性質上、午後一時から午後二時三〇分の午睡時に適宜とっているのが実態である。

横浜市の保育園では、時間外の保育は、時間外託児福祉員がこれに当たり、保母の業務とはなっていない。

保育園の保母の一日の定例的な業務内容は、おおよそ次のとおりである。

午前

八時三〇分 出勤

八時三〇分〜一一時〇〇分 クラス別保育

一一時〇〇分〜一二時〇〇分 食事の準備、食事

一二時〇〇分〜一二時三〇分 食事のあとかたづけ、午睡の準備

一二時三〇分〜午後一時〇〇分 寝かせる。

午後

一時〇〇分〜二時三〇分 午睡(この間、日誌、連絡帳記載)

二時三〇分〜三時〇〇分 着脱、布団のかたづけ、おやつの準備

三時〇〇分〜四時〇〇分 園児と自由行動

四時〇〇分〜四時三〇分 園児を帰し、退勤

(以上につき、<書証番号略>)

(二)  <書証番号略>、証人伊藤てい子の証言、被控訴人本人尋問の結果(原審)によれば、一、二歳児については、右業務の具体的内容は、おおよそ次のとおりである。

午前

八時三〇分 登園(午前八時三〇分より少し前)、乳児の引き取り、乳児の様子の視診、保護者との健康状態などの遣り取り、着替え等の受取り、整理、掃除等

九時三〇分ころ おやつ これに伴う排泄、手洗い、掃除などのおやつの準備とあとかたづけ

一〇時ころ 園庭での遊びも含めテーマ遊び等

一一時ころ〜一一時四〇分ころ 昼食 これに伴う昼食の準備、食事の介助、あとかたづけ等

一一時四〇分ころ〜一二時三〇分ころ かたづけ、掃除、布団を敷く、着替え、排泄など午睡の準備等

一二時三〇分ころ〜午後二時三〇分ころ 午睡 寝かしつけ、眠っている児の世話、適宜に連絡帳や保育日誌、ケース記録の記入、掃除、保母の食事や休憩等

午後

二時三〇分ころ〜三時ころ 着替えや排泄の介助、布団のかたづけ、おやつの準備

三時ころから おやつ、あとかたづけ、掃除、自由遊び等

三時三〇分ころ〜四時三〇分ころ退園準備、保護者の迎えをうけて退園

一、二歳児の場合は、一日に五回位、排泄に行かせるように仕向ける必要があり、保母は、絶えず、この点に気を配っている。

三歳児以上の児童についても、保母の業務の内容は、午前中のおやつがなく、自由遊びや集会などがあるほかは、乳児の場合と大きな違いはないが、教育的配慮から、年長の子に、食事、おやつ、午睡等の準備やあとかたづけ、清掃等の手伝いをさせることが多い。また、四、五歳児は、食事や排泄の介助はほとんど必要がない。

一、二歳児は、保母の保護、介助が必要の程度が高いので、三歳以上の幼児に比べ、保母の負担は大きいと考えられている。

いずれの場合も、食事、排泄、着替え、あとかたづけ等には、乳幼児の介助とともに園児に対しては教育的配慮を伴う保育がなされていた。

保母は、このほか、それぞれ月一回のカリキュラム会議や職員会議への参加、諸行事の打合せや準備、カリキュラム作成、各月の園だよりの作成、父兄との懇談会等がある。

2 長津田保育園(昭和四三年四月から昭和四七年五月まで)

(一)  請求の原因2(三)の事実のうち、以下の事実は当事者間に争いがない。

(1)  イの事実のうち、被控訴人が、昭和四三年四月から昭和四七年五月まで長津田保育園に勤務したこと、昭和四三年度の担当園児数、昭和四五年、四七年度の担当及び担当園児数。

(2)  ハの事実のうち、乳児室に便所が設置されていなかったこと、便所と乳児室が離れていたこと、被控訴人が勤務していた当時、便所が汲取式であったこと。

(3)  ニの事実のうち、乳児室の暖房がストーブ、保育室の暖房がコールヒーターであったこと、用務員という名称の職員が配置されていなかったこと、作業員(調理員)が一名しか配置されなかったこと。

なお、控訴人は、被控訴人主張の事実を次の限度で認めている。

乳児担当の保母が交代で石油の運搬、補給をしたこと、椅子、テーブル、ベットの配置替えは年に二ないし三回程度保母が全員で行うこと、午睡の布団敷きを乳児の分は担当保母が行うが、幼児の分は保母が幼児に布団を手渡す程度であること、カバーの取替えは週一回位の割合で行うが、乳児の分は担当保母が行い、幼児の分は幼児が自分で行っていること、布団、ベッドの日光浴は週一回程度の割合で晴れた日にのみ行い、乳児の分は担当保母が行い、幼児の分は保護者が布団を出し、担当保母が幼児に手伝わせて布団を入れること。

(4)  ヘの事実のうち、被控訴人が園だより、卒園文集などの文書の筆耕作業を行ったこと。

(二)  右争いのない事実及び<書証番号略>、証人伊藤てい子の証言、被控訴人本人尋問の結果(原審、当審)によれば、次の事実が認められる。

(1)  長津田保育園は、昭和四〇年に住宅街の凹地に建設された定員六〇名の保育園である。職員は、園長一名、保母四名、作業員一名の合計六名である。厚生省基準によると、定員六〇名の保育園の場合、園長一名、保母三名、作業員二名であるが、横浜市は、職員団体との話合いにより保母一名増、作業員一名減にしている。被控訴人は、昭和四三年四月一五日から昭和四七年六月一日まで同保育園に勤務したが、その間、右構成の職員が在職していた。

(2)  被控訴人の担当は次のとおりである(各年度の四月一日現在)。

昭和四三年度 一、二歳児 六名(争いがないが、<書証番号略>では四月時五名)

昭和四四年度 四歳児 一三名(<書証番号略>)

昭和四五年度 五歳児 一三名(争いないが、<書証番号略>では一二名)

昭和四六年度 一、二歳児 一〇名(八月から一一名)

(うち、同年四月の時点で、二歳児九名、一歳児一名、同年八月一名追加、同僚と二名で担当)

昭和四七年度 一、二歳児 一一名

(同年四月の時点で、二歳児六名、一歳児五名、同僚と二名で担当)

昭和四五年度の園児は、昭和四四年度の組のいわゆる持ち上がりになるため、八名の園児が両年度共通であった。また、昭和四七年四月一〇日から同年五月二一日まで応援の保母を含め、三名で担当した。

(3)  長津田保育園の一、二歳児の措置定員は、昭和四三年当時六名であり、保母一名が担当していたが、昭和四六年度から措置定員一二名になり、保母二名が担当するようになった。なお、同保育園の一、二歳児の措置定員は、昭和四八年度から八名になり、保母二名がこれを担当した。

(4)  昭和五一年度までの長津田保育園の施設の状況は、別紙図面(一)のとおりである。建物は、南向きであり、乳児室は、各面積一八平方メートルの乳児室が隣接して二個設けられ、その間は、一部は壁と腰高窓、残りの部分は引き戸で仕切られていた。便所は、昭和四八年まで汲取式であり、乳児室に設けられておらず、乳児室から廊下を挟んで見通しのきかない向側の場所にあった。

(5)  被控訴人は、筆耕の技術があるところから、長津田保育園在職中、園だより(月ほぼ一回)、運動会等の三行事のプログラム、卒園文集(同保育園では一回)等のガリ切りを引き受けていた。

(6)  乳児室は、前示のような形で二つに分かれており、一室は食事、遊びなどの保育用に、他室は午睡用に当てられていたが、食事やテーマ遊びなどの際には、四つのテーブルを並べ一一名の乳児(昭和四六年度)が座ることもあった。午睡用の保育室には、ベッドが置いてあった。

3 山手保育園

(一)  原判決の理由説示中、同判決三八枚目表七行目の冒頭から同三八枚目裏一一行目の末尾までを引用する。但し、原判決三八枚目裏一〇行目の「指導」を削る。

(二)  前記争いのない事実と<書証番号略>、証人龍崎清一、同森重邦子の各証言、被控訴人本人尋問の結果(原審、当審)によれば、次の事実が認められる。

(1)  山手保育園は、昭和四七年六月に新設された定員六〇名の保育園である。職員は、園長一名、保母四名、作業員(調理等担当)一名である。被控訴人が着任した昭和四七年六月の時点では、被控訴人を除く保母及び作業員は全て新規採用であり(もっとも、保母のうち一名は新規採用であるが、保母の経験は持っていた。)、保育園長は、児童福祉事業に従事した経験が全くなかった。同保育園の施設の状況は、別紙図面(二)のとおりである。

(2)  被控訴人は、昭和四七年六月一日に山手保育園の保母に発令され、翌二日ころ着任し、昭和五二年五月一九日、横浜市立岸根保育園へ転勤するまで、山手保育園に勤務した。控訴人は、上席保母であり、慣用的に「主任保母」といわれていた(以下、「主任保母」という場合は、右の意味で使用する。)。

同保育園の園長は、昭和四七年五月一七日発令され、被控訴人以外の他の職員は、同月二二日発令され、いずれも、五月中に着任し、被控訴人の着任前に、園舎の掃除、園庭の片付けは終わり、机、椅子なども運び込まれていた。

(3)  被控訴人の担当は次のとおりである(当事者間に争いがない。)。

昭和四七年度 一、二歳児 六名(<書証番号略>)

昭和四八年度 三歳児 一六名

昭和四九年度 五歳児二七名

昭和五〇年度 一、二歳児 六名

昭和五一年度 一、二歳児 六名

(同僚と二名)

昭和五二年度 一、二歳児 六名

(同僚と二名)

八長津田保育園における被控訴人の業務の状況(過重性について)

1 昭和四三年度から昭和四五年度までの期間について

被控訴人は、前示のとおり、昭和四三年度は、一、二歳児六名、昭和四四年度は四歳児一三名、昭和四五年度は五歳児一三名を担当したが、保母一名当たりの園児数について、厚生省の基準(横浜市の基準も同じ。)によれば、一、二歳児は六名、三歳児二〇名、四歳児及び五歳児はいずれも三〇名であり、(<書証番号略>)、右基準に適合しているから、担当園児数の点のみからいえば業務が通常の保母の場合に比べて重いとはいえない。

時間外勤務の状況を見ると、右勤務時間は、昭和四五年度は、同年の四月に一七時間、五月に一〇時間、六月に八時間、七月に九時間、八月、九月に各八時間、一〇月に七時間、一一月に九時間、一二月に四時間、昭和四六年の一月に七時間、二月に一一時間、三月に一五時間である(昭和四三、四四年度は不明であるが、格段と多かったと認めさせる証拠はない。)。これは、横浜市内の保育園の保母の時間外勤務の実態と大きな差異がないとされる。時間外勤務の内容は、職員会議、カリキュラム会議、行事の準備、資料の整理などである(時間外勤務の内容については、以下同じ。)。(以上につき、<書証番号略>、証人伊藤てい子の証言)。

休暇の取得状況を見ると、年次休暇については、昭和四五年は、一月に0.5日、二月に1.5日、三月に二日、四月に1.5日、七月に0.5日、九月に2.5日、一〇月に一〇日、昭和四六年は、一月に一日、二月に3.5日、三月に2.5日であり、このほかに、昭和四五年は、職免を五月に二日、六月に一日、七月に二日、夏季職免を七月に四日、八月に一日得ている。(<書証番号略>)。

2 昭和四六年度及び昭和四七年五月までの期間について

被控訴人は、一、二歳児を同僚と二名で担当し、昭和四六年度は、一〇名(同年八月に一名追加されて一一名)、昭和四七年四、五月は、一一名であったが、いずれも、園児数は厚生省の前記基準に適合しており、特に、昭和四七年四月一〇日から同年五月二一日までは森重邦子(以下「森重」という。)が応援保母として一、二歳児を担当したので(<書証番号略>)、担当園児数の点のみからいえば、通常の保母の場合に比べ業務が重いとはいえない。

被控訴人は、昭和四七年四、五月は、保育園に始めて通園した一、二歳児を担当し、しかも同僚保母が二名いたといっても、新採用であったから被控訴人の負担は重かったというが、たとえ負担を重く感じたとしても、一、二歳児を担当するのは、保母として通常の業務であるからこれをもって特別の負担とはいえないし、同僚保母が新採用であることも保母としては通常あり得ることであるから、これをもって特別の負担ということもできない。

また、昭和四六年七月八日から同年一一月二九日まで被控訴人の同僚保母(武藤)が産休を取ったが、この間同年六月一日から同年九月三〇日までは正規の保母が配置され、同年一〇月四日から同年一二月三日までは時間外託児福祉員が補助を勤めた。被控訴人は、昭和四六年六月一四日に長女ゆりかを出産したが、同年五月一日から同年八月二日まで産休を取っており、この間は保育業務に従事していない。また、被控訴人は、同年八月三日から昭和四七年六月一〇日まで、育児のために、勤務時間を一時間短縮されており、業務の負担は軽減されていた。(以上につき、<書証番号略>、被控訴人本人尋問の結果―原審、当審)

被控訴人は、時間外託児福祉員は正規の保母でないため、被控訴人の負担が重かったというが、やや負担が重くなったことがあることは否定できないとしても、この間、被控訴人は前記のとおり、育児のために勤務時間を短縮されていたのに、特に保育上格段の支障を生じたことが窺われないのであるから、保母の代替者が時間外託児福祉員であったことが被控訴人にとって過大な負担になったとはいえない。

時間外勤務の状況を見ると、右勤務時間は、昭和四六年度は、同年の四月に一五時間、八月に二時間、九月に八時間、一〇月に九時間、一一月に七時間、昭和四七年の一月に八時間、二月に七時間、三月に一五時間、昭和四七年度は、同年の四月、五月に各四時間である。これは、横浜市内の保育園の保母の時間外勤務の実態と大きな差異はないとされる(<書証番号略>)。

休暇の取得状況を見ると、年次休暇については、昭和四六年は、四月に2.5日、一〇月に三日、一一月、一二月に各二日、昭和四七年は、一月に一日、二月に三日、三月に二日であり、このほかに、昭和四六年八月に夏季職免等六日、同年一二月、昭和四七年一月に生理休暇各一日がある(<書証番号略>)。

3 以上の事実によると、被控訴人の長津田保育園における勤務については、その業務内容、業務態様、業務量等において、通常の保母の業務に比べて、格別負担が重かったと認めさせる特異な事情は見当たらない。被控訴人は、筆耕の技術を持っており、保育園の園だよりなどのガリ切りを引き受けていたことは認められるが、これも、被控訴人の身体に大きな負担を与える程の業務量とも考えられない。したがって、被控訴人は、前示のとおり、昭和四五年九月ころから時々肩などに痛みを感じ、昭和四七年四月ころから慢性的肩凝りに加え、右肘等の筋肉が痛み出したというが、右症状の相対的に有力な原因が、右期間に従事した保育業務によるものとは認められず、その他、右事実を認めさせる証拠はない。

4 長津田保育園の設備について

被控訴人は、長津田保育園の設備が不備であったことが、被控訴人の労働過重の一因をなしたと主張する。

昭和五一年度までの同保育園の乳児室は、前示のような形で、二つに分かれており、各一八平方メートル、合計三六平方メートルであり、一、二歳児の措置定員は一二名である。

厚生省の基準によれば、一、二歳児一名当たりの面積は2.475平方メートルであり(<書証番号略>)、被控訴人が担当した昭和四三年度は六名(14.85平方メートル必要)、昭和四六年度、昭和四七年度は各一一名(27.225平方メートル必要)であるから、いずれも、厚生省の基準を充たしていた。昭和四三年度は、一室だけで基準を充たしていたといえる。もっとも、同保育園では、前示のような形で乳児室を二つに仕切り(各室一八平方メートル)、一室を遊び・食事など用に、一室を午睡用に充てていたから、昭和四六年度では、一室だけをとって見ると、面積が厚生省の基準に足りないけれども、前示のとおり、両室は引戸等で仕切られているに過ぎず、引戸を開くことにより両室を併せて使用することが可能であることを考えると、直ちに右基準に違反するものとはいい難く、また、食事に際しテーブルや乳児の椅子を置くと、やや狭く、乳幼児の介助に不便な点はあったかもしれないが、テーブルや椅子の周囲には相当程度の空間が残ることが認められる(<書証番号略>)から、被控訴人のいうように、食事の介助時に保母が横に身体を捻るような不自然な姿勢を取ることを絶えず余儀なくされる程であったとまでは認められない。

次に、午睡用の部屋が狭いため全ベッドが収まりきらず、ベッド二台を廊下に置いていたため、午睡の度にベッドを入れたり出したりすることが負担になったという(被控訴人本人の当審供述)が、仮にベッドの処理がそのとおりとしてもベッドの大きさや台数、キャスター付であること、他の保母もベッドの出し入れを分担していたこと(<書証番号略>、被控訴人の右供述)等を考えると、被控訴人にとり過大な負担であったとは認められない。

また、同保育園の便所は、前示のとおり、乳児室からやや離れているため、排泄のために抱いて連れて行く場合や乳児の排泄の介助をしながら他の乳児の監視をするには不便であり、また、前示のように汲取式であったから、乳児の落下事故の防止のため介助の必要があり、便所が乳児室に隣接された(<書証番号略>によれば、通常の保育園の構造と認められる。)水洗式の場合に比べ、保母の負担が大きかったことは否定し難い。しかし、被控訴人が、一、二歳児を担当したのは、昭和四三年度と昭和四六年度であるが、昭和四三年度はともかく、昭和四六年度の一、二歳児の年齢構成は、同年四月一日時点で、最年少児が一年九月のほかは、すべて二歳児であり、同年六月時点では、三歳児一名、二歳児九名になり、同年一一月時点では、同年八月措置児を除くと、二歳児六名、三歳児四名になっており(<書証番号略>)、排泄介助の必要度が次第に少なくなっており、被控訴人が昭和四六年五月一日から同年八月二日まで産休のため保育業務に従事していなかったこと、乳幼児の年齢に照らすと、園児を抱いて便所に連れて行く必要がそれ程多かったとは思われないことも考えると、便所の構造は、被控訴人にとってそれほど大きな負担となっていたものとは認められない。

九山手保育園における被控訴人の業務の状況(過重性)について

1 昭和四七年六月から同年九月四日までの期間

(一)  被控訴人は、一、二歳児六名(たんぽぽ組、うち一名は、ほとんど出席しないまま同年一一月末日退園し、一名が同年一二月一一日入園し、一名が昭和四八年一月一八日退園し、一名が同年二月一日入園した。<書証番号略>)を担当した。他の保母の担当園児数は、同年六月七日時点で三歳児、四歳児、五歳児の担当者が、それぞれ九名、一五名、一九名であり、同保育園の園児数は合計四九名であった(<書証番号略>)。これは、保母一名当たりの園児数に関する前記厚生省基準に適合しており、担当園児数の点のみからいえば、通常の保母の場合に比べて業務が重いとはいえない。

時間外勤務の状況を見ると、昭和四七年六月、七月に各六時間、八月に三時間であるが、これは横浜市内の保育園の保母の時間外勤務の実態と大きな差異がないとされる(<書証番号略>)。なお、被控訴人は、昭和四七年六月一〇日までは、育児のため、勤務時間を一時間短縮されていた。もっとも、山手保育園に着任後の昭和四七年六月二日以降は、多忙のため、事実上、勤務時間短縮を受けられないこともあった(被控訴人本人尋問の結果―原審、当審)。

休暇の取得状況を見ると、同年九月四日のほか年次休暇はなく、夏季職免が七月に一日、八月に五日、職免が六月に一日、八月に0.5日それぞれある(<書証番号略>)。

(二)  開園準備等による負担について

山手保育園は新設の施設であったが、被控訴人が昭和四七年六月二日に着任した時点で、控訴人の意向もあって急遽六月七日に入園式を行うことを決めて入園事務の準備を始め、同日入園式、同月一二日開園式をそれぞれ実施し、同月一一日から保育を開始した(保育の開始日については、準備を整えるために被控訴人の要請により入園式との間に時間的余裕を置いたものである。)。被控訴人は、着任早々であったが、他の保母等とともに、入園式や開園式の準備のほか、園児のクラス分け、クラス名の決定、園児の名簿の作成、連絡帳等の準備、保護者との個人面接、乳児室や保育室の装飾・整備、職員会議の開催等保育開始のための準備的事務の処理に当たった。被控訴人は主任保母として、又は、保母経験のある者として、指導的ないし中心的立場でこれらの事務処理に当たった。(以上につき、証人龍崎清一、同森重邦子の各証言、被控訴人本人尋問の結果―原審、当審)

前示保育開始後の保育の状況については、同年六月二二日までは、いわゆるならし保育期間として通常よりも時間を短縮した保育が行われ、同月二三日以後、通常の時間の保育が行われるようになった(<書証番号略>)。

この間、着任時から入園式までは実質的には3.5日(六月四日の日曜日を除く。)、保育開始日まででも一〇日位であり、横浜市内の新設の保育園では、準備期間が職員着任後通常一月位あること(<書証番号略>、証人龍崎清一の証言)、他の保母が新規採用者であったことを考えると、短期間ながらその準備に集中的に当たった被控訴人らは多忙で、その負担が重かったことは想像に難くない。しかし、右期間は短期間であり、他の職員の協力を得て行ったものであること、この間、本来の保育業務には従事しなかったものであること、準備事務の内容を考えると、一時的に右事務の負担が重かったとしても、被控訴人の頚肩腕症候群と診断された症状と関係する意味で、被控訴人の身体に過大な負担を与えたものとは認められない。

(三)  主任保母としての負担について

被控訴人は、森重(熊本県で五年間位、民間の保育園の保母の経験がある。<書証番号略>)を除く他の保母が新規採用の保母未経験者であり、主任保母でもあったところから、前示のとおり、入園の準備のほか、平常の保育についても、他の保母の相談に応じたり、行事の計画その他保育の業務について、中心的役割を果たしていたし、被控訴人は、主任保母として、山手保育園の管理運営について園長を補佐する立場で、日常の保育の実施についての他の保母の指導、助言、職員の取りまとめなどにつとめたことは認められる(<書証番号略>、証人龍崎清一の証言)が、保母四名の規模の保育園であること、保育園の管理事務は園長が処理に当たっていたことを考えると、主任保母としての負担が過大であったということはできない。

(四)  調理員の業務従事による負担について

被控訴人は、調理員内田洋子が、昭和四七年八月七日から同月一五日まで休暇を取ったときは、七日間厨房で調理を担当した。被控訴人は、おやつと一、二歳児の主食、副食、幼児の副食の調理をした。この期間中は、夏季のため登園児童は比較的少なく、三名ないし一六名(八月七日に三名、八日に一三名、九日に一二名、一〇日に一三名、一一日に一五名、一四日に一五名、一五日に一六名である。)であり、一日平均約12.4名分の調理をした。保母は、二ないし三名が勤務し、夏季合同保育が行われており、調理の間は、他の保母が保育を行った。配膳、食器洗い、あとかたづけなどは、他の保母等も手伝った。(以上につき、<書証番号略>、証人龍崎清一の証言、被控訴人の本人尋問の結果―当審)

調理という慣れない担当事務外の仕事なのであるから、被控訴人にとってそれなりの負担になったことは理解できるが、短期間で、園児数も少ないことや調理の間は保育には事実上当たらないことに、調理という仕事の性質を考え併せると、以上のことが、被控訴人の身体に過大な負担を与えたものとは認められない。

(五)  夏季合同保育による負担について

被控訴人は、この点について「山手保育園では、昭和四七年七月二四日から同年八月三一日まで、夏季合同保育ということで出勤している保母全員が登園している園児全員を保育するといういわゆる『ごちゃまぜ保育』が行われた。こうした保育は、その性質上、保母全員の労働過重をもたらすものである。一、二歳児の登園々児数を見ると、七月二四日から同月三一日まで、八月二三日から同月三一日までは、四又は五名であり、被控訴人の本来の担当園児数は六名であるから、担当園児数は平常と余り変わらず、夏季合同保育は、他の年齢の幼児をも担当するので負担軽減にならず、かえって負担過重である。同期間中の休暇取得日数や休暇の取り方からも、他の保母より負担が重い結果になっている。」旨主張する。しかし、被控訴人が他の園児をも担当する代わりに、他の保母も一、二歳児の保育を担当するのであるから、他の園児を担当することによる園児数の増加自体が直ちに負担過重をもたらすものではない。そして、夏季保育期間を全体として見ると、この期間は、最多で四〇名、最少で三名の園児を、二ないし四名の保母が保育に当たったことになるが、一、二歳児のみについて見ると、その登園数が一、二名の日もあり、他の年齢の登園児も他の時期に比べて少なく、この期間中の被控訴人が出勤した二六日のうち園児の登園総数二〇名未満の日が一五日ある(<書証番号略>)。また、被控訴人は夏季職免六日(他の保母に比べ、特に少ない日数ではない。)を得ているのであるから、混合保育による苦労の増加を考慮しても、右期間中に、保育の負担が過重になったとはいえない。

(六)  右事実によると、昭和四七年六月二日から同年九月四日までの期間は、被控訴人が新設の山手保育園に主任保母としての着任に続く時期であり、被控訴人は、入園式や保育開始の準備のため、一時的には、多忙で、精神的に或いは身体的に負担が大きかった時期があったことは認められないではないが、右期間は短期間であり、時間外勤務の状況などをも考え合わせると、この期間を全体として見れば、通常の場合に比べて被控訴人の負担を著しく大きいものとする特別の事情があったとすることはできない。

2 昭和四七年九月五日から昭和四八年三月末日までの期間

(一)  被控訴人は、前記期間に引き続き一、二歳児六名の保育を担当した。園児数については、厚生省の基準に適合することは前示のとおりであり、担当園児数の点のみからいえば、通常の保母の場合に比べて業務が重いとはいえない。

時間外勤務の状況を見ると、昭和四七年は、九月に九時間、一〇月に六時間、一一月に七時間、一二月に六時間、昭和四八年は、一月、二月に各七時間、三月に一〇時間であるが、これは、横浜市内の保育園の保母の時間外勤務の実態と大きな差異がないとされる(<書証番号略>)。

休暇の取得状況を見ると、年次休暇については、昭和四七年については、九月に一日、昭和四八年一、二、三月に各一日である(<書証番号略>)。

(二)  保母森重邦子の長期欠勤について

保母の森重は、昭和四七年四月一日横浜市に採用され、同月一〇日長津田保育園に応援保母として勤務した後、同年五月二二日から山手保育園勤務になり(<書証番号略>)、三歳児九名(同年七月一〇日からは一〇名)(もも組)を担当した(<書証番号略>)。森重は、昭和四七年一〇月初旬ころから、切迫流産の疑いの診断を受けて欠勤し、以後は昭和四八年三月末日までほぼ欠勤する状態が続いた。即ち、同人は、昭和四七年一〇月二日から同年一一月二四日までの間は、同年一〇月三日から五日までを出勤したほか欠勤し、同年一一月二五日から同年一二月四日までの間は、一二月一日を除き出勤したが、同月五日から昭和四八年三月末日まで欠勤した(<書証番号略>)。森重が欠勤した期間は、昭和四八年四月に新たに任命された保母が着任するまで、事実上は、保母三人の体制であったが、昭和四七年一〇月二一日から同月二七日までと昭和四八年一月一八日から同年三月三一日までは、保母資格のない時間外託児福祉員の粂川晴美(山手保育園で、昭和四七年九月から時間外託児福祉員を担当)が補助者として勤務し、昭和四七年一一月一日から同月二一日まで(但し、同月七、一三、一四、一五、二〇日を除く。)は熊沢千代子がアルバイト保母として勤務した。粂川は、昭和四七年一〇月の勤務時は、午前一〇時ころから午後二時ころまでの繁忙時の勤務であり(朝夕は、時間外託児を担当)、昭和四八年一月から同年三月までの勤務時は、時間外託児を担当せずに終日勤務した。(以上につき、<書証番号略>、証人龍崎清一の証言)

昭和四八年一月一一日以後は、クラスの編成替えにより、森重の担当したもも組の幼児のうち、年少の五名をたんぽぽ組に、年長の五名をすみれ組(四歳児)に編入して、保育が行われるようになった(被控訴人本人尋問の結果―原審)。

右クラスの編成替えまでの間は、被控訴人は、たんぽぽ組ともも組との合同保育を乳児室の部屋で、粂川が勤務した期間は、同人の補助を得て行い(同人が三歳児を主として担当)、その外の時期は他の保母の助けを借りながら行った。もっとも、熊沢千代子が勤務していた期間は、同人がもも組の保育を担当した。被控訴人が単独で両組の合同保育を行った日数は、昭和四七年一〇月は一三日間(うち三日間は粂川が補助)、一一月は四日間、一二月は三日間である。この間、右の合同保育における担当園児数は、最多一四名、最少九名である。被控訴人担当の一、二歳児の年齢は、昭和四七年一〇月一日時点で一歳児はなく、二歳児四名(二歳三月、同八月各一名、同一一月二名)のみ(他は三歳児二名)になっていた。その他の日は、被控訴人は、担当の一、二歳児の保育のほか、他の保母らとともに運動会、クリスマス会、園外保育など全園児の合同保育に当たった。(以上につき、<書証番号略>、証人龍崎清一の証言)

昭和四八年一月一一日以降は同年三月末日まで、被控訴人は粂川の補助を受けて一、二歳児と合わせて一一名(年齢二歳三月から三歳九月までの乳幼児、二歳児三名、三歳児八名)の保育を担当した。園児数は、一一名ないし六名である。但し、被控訴人は、単独で、昭和四八年二月六日(粂川が四歳児を担当)は九名、同年三月一三日(粂川は休暇)は八名の保育を担当した。また、被控訴人は、不在の他の保母に代わって、昭和四八年二月一六日は四歳児(一四名)を、同月二二日は五歳(一九名)を、同年三月一〇日及び一二日は四歳児(それぞれ一三名及び一五名)を、同月一七日及び一九日は五歳児(一〇名及び一六名)をそれぞれ担当したために、また同年一月三〇日、二月一日(午後)、五日(午前)、一五日(午後)、二一日、二七日(午前一〇時四五分まで)、三月一日(午後)、五日、二八日は、休暇取得などのため不在であったために、たんぽぽ組の保育を担当しなかった。同月二四日に卒園式があり、その後は、全保母による合同保育が行われた。(以上につき、<書証番号略>、証人龍崎清一の証言、被控訴人本人尋問の結果―原審)

以上の事実によれば、被控訴人は、保母経験の最も長い主任保母の立場上、森重の欠勤の当初は、もも組の保育も引き受け、他の保母の協力を得ながら両組の合同保育に当たり、クラスの編成替え後は、もも組の幼児の一部を引受けて合同保育に当たったものである。合同保育は、担当園児数が増加するだけではなく、園児の年齢による成長程度に差がおおきくなり、従来の担当外の園児を新たに担当することになり、乳児室が合同保育には狭すぎることもあって、被控訴人にとっては精神的にも身体的にも負担が増したことは十分に窺うことができる。しかし、被控訴人が、実際に単独で実施した合同保育の日数は、他の保母の協力や粂川の補助などのため、前示のように短期間ですんだこと、実際に担当した園児数は最多一四名であり、その年齢も、昭和四七年一〇月一日時点で、前示のとおり、一、二歳児は、二歳児四名(うち二名は二歳一一月)のみになっていたことを考えると、森重の長期欠勤に伴い保育実施の上で種々の不便不都合が生じることを考慮しても、被控訴人の負担が過大であったとはいえない。

この期間の保育業務の負担は、右のように過大とはいい難いが、全体として他の期間の保育業務の負担よりは重かったと思われる。しかし、保育業務が一般的には前示のとおり、保母の上肢に過大な負担を負わせる性質のものとはいえないことに照らせば、仮に、この期間における前示の程度の一時的負担増の影響を大きく見積もったとしても、それが、頚肩腕症候群と診断された被控訴人の症状に相対的に有力な原因になったと認めることは困難である。

3 昭和四八年四月一日から昭和五一年八月一三日までの期間

被控訴人は、昭和五一年八月一三日まで、汐田病院に通院治療を受けているので、右治療を終えたころまでの業務の状況を検討する。

被控訴人の担当は前示のとおりである。保母一名当たりの園児数については、前示厚生省の基準に適合しているから、担当園児数の点のみからいえば、業務が通常の保母の場合に比べ重いとはいえない。

時間外勤務の状況を見ると、昭和四八年は、四月、五月に各六時間、六月に八時間、七月、八月に各六時間、九月に一一時間、一〇月に一〇時間、一一月に六時間、一二月に一二時間、昭和四九年は一月に六時間、二月に八時間、三月に一〇時間である(なお、昭和四九年四月以降については証拠が提出されていないが、時間外勤務が格段と増加したことを窺わせる証拠は提出されていない。)。これは、横浜市内の保育園の保母の時間外勤務の実態と大きな差異はないとされる(<書証番号略>)。

休暇の取得状況は、次のとおりである(<書証番号略>)<編注・次頁表>

なお、このほか、被控訴人は、昭和五〇年七月から昭和五四年一〇月まで、所属組合の執行委員を勤めており、組合関係の会合に出席のため、昭和五〇年七月から昭和五一年三月までの間に、多数回にわたり時間単位の職免を得ている(<書証番号略>、被控訴人本人尋問の結果―原審)。

以上の事実によれば、保育業務上、被控訴人に過大な負担を余儀なくさせる特別の事情があったとは認められず、その他これを認めさせる証拠はない。

4 近隣居住者の苦情について

山手保育園と道路を挟んで真向いに居住する及川満は、昭和四七年八月ころから、同保育園に対し、「スピーカー、レコードを中止せよ。」「子どもの泣き声がうるさい。」などの苦情を述べるようになり、その後、昭和五〇年七月ころ、抗議が激しくなったので、同保育園は、同人の抗議への対応に苦慮し、園児の定員改正など種々の対策が講じられるに至った(<書証番号略>、証人龍崎清一の証言)。被控訴人は、隣人からの激しい苦情の中で、保育を行うことは、被控訴人を含む保母に精神的、肉体的に大きな影響を与えたと主張するが、保母への影響を全く否定することはできないものの、右及川など隣人に対する対応は、主として、保育園長の龍崎清一が当たっていたものであり(同人の証言)、また、その苦情が激しくなった時期の点からいっても、被控訴人の本件症状の発症、増悪と密接な関係があるものとは認められない。

5 園外の公園における保育の負担について

被控訴人は、山手保育園は、付近にあるキリン園公園を園庭が狭いこともあって乳幼児の保育に使用することが多く、昭和四七年度の運動会にも使用したが、同保育園から同公園までの乳幼児の移動に伴う交通事故防止や公園における第三者との接触に対する配慮、園外保育のため他の仕事を並行的に行えない不便、運動会の練習や開催のための道具の運搬が保母にとって大きな負担になったと主張する。

同保育園では、右公園を保育に往々使用し、たんぽぽ組は、昭和四七年六月から昭和四八年三月までの間に、二三回(内四回は運動会の練習のため)使用していること、昭和四七年度の運動会(昭和四七年一〇月四日実施)及びその準備練習は同公園を使用して行われたこと、同保育園から同公園までは、歩行時間は一、二分位であり、一七名の園児を四名の保母で連れていく場合でも、最大限約一〇分で足りること、途中の道路の自動車の交通量は、一〇分間に二、三台であること(<書証番号略>、被控訴人本人尋問の結果―当審)は認められる。右事実によれば、運動会やその準備のための道具の運搬は、保母にとり身体的な負担になるとしても一時的なものに過ぎないし、キリン園公園での園外保育も頻繁に行われるものではなく、同公園までの道路の交通量を考えても危険が多いものとも認められず、安全の配慮は、乳幼児を道路上に連れ出す場合に通常伴うものと認められるから、通常の保育に伴う負担に比べ過大な負担を保母に負わせるものとは見ることができない。

一〇その他の事情

被控訴人は、昭和四六年六月一四日長女ゆりかを出産したが、産休の終了した同年八月以降は、勤務時間中は、姉に長女の世話を委ねたものの、帰宅後は、自ら当時七歳の長男(昭和三八年八月一四日生)及び五歳の次男(昭和四一年一月一四日生)と合わせて育児に当たるとともに家事を処理した。被控訴人は、昭和四六年一〇月ころ、出産の影響により、腰から大腿部の筋肉痛により産婦人科で治療を受けた。(以上につき、<書証番号略>被控訴人本人尋問の結果―当審)

一一以上を総合すると、被控訴人の業務と被控訴人が頚肩腕症候群と診断された症状との間の因果関係については、次のとおりいうことができる。

保育園における保育業務における保母の作業は、多種多様な作業を含み、そのため保母は多種多様な動作や姿勢をとることを強いられるけれども、右作業は一般的には、前示のとおり、前記労働省通達にいう業務のように、上肢という身体の特定の部位に過大な負担を負わせる性質のものとはいえないこと、前示のとおり、被控訴人の長津田保育園及び山手保育園における業務は、一時的に他の時期に比べてその負担が重かった時期もあったが、被控訴人にとりその業務内容、業務量において過大なものであったとはいえないこと、前示のとおり、長津田保育園及び山手保育園における執務環境は、前者について問題はあったものの、いずれも、特に劣悪なものであったとはいえないこと、これらのことに、頚肩腕症候群については、その発症の原因について医学的解明が十分になされておらず、発症者の身体的、心理的因子が絡むことも無視し得ないとされていること(ちなみに、被控訴人は、昭和四六年六月一四日出産し、その後、勤務の傍ら三名の幼い子供の育児に当たっており、また同年一〇月ころ、前示のとおり筋肉痛により治療を受けるなどしており、被控訴人の症状を考えるに当たって、これらのことを全く無視するわけにもいかない。)、保母の業務は身体の両側をほぼ同様に使用すると見られるところ(<書証番号略>にも、「保母では、左右の症状が同じ程度に見られることが多い」との記載がある。)、被控訴人の症状は、主として、身体の右側に顕れていること等を考え合わせると、被控訴人は、本件症状発症までに、そしてその後も、相当期間保母の業務に従事してきたものであるから、保育業務と被控訴人の症状との間に何らかの関連があることを否定することはできないとしても、被控訴人の従事した保育業務が、被控訴人の罹患したとされる頚肩腕症候群の発症や増悪の相対的に有力な原因であるとまでは認定することができない。

したがって、被控訴人の業務と被控訴人が頚肩腕症候群と診断された症状との間の相当因果関係を認めることができないことになり、被控訴人の本訴請求は、その余の点を判断するまでもなく、理由がないといわざると得ない。

一二以上のとおり、被控訴人の本訴請求は理由がないところ、これを一部認容した原判決は失当であるから、右認容部分を取り消して、被控訴人の本訴請求を棄却することとし、被控訴人の附帯控訴は理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法九六条、八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官伊藤滋夫 裁判官宗方武 裁判官水谷正俊)

別紙図面(一)(二)<省略>

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